昭和四十七年二月二十五日 朝の御理解
X御理解第七十節「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」
これは金光教の信心をせねばならんということです。沢山のいろんな宗教・宗派がございますけれども、言うておることは成程一応立派なことであり、もっともなと思う。私は、詳しくは知りませんけど、まあかじって知っておる程度から言うても、そこがちょっとおかしいなというように感じる。すべてがそうです。あらゆる宗教がそうです。
ここでも、人間は万物の霊長であるから、金光教の信心をせなければならん。教祖金光大神が天地金乃神様からお知らせを受けられて、お頼みを受けられて、そしてそこになされるところの信心は、もう徹頭徹尾、天地の道理に合うた信心であるということなのです。他に道理に合うた信心がありません。
そこでそれなら、金光教の信心をさせて頂いておる者が、果たして道理に合う信心をしておるかというと、これがまたごく稀な、金光教の教祖の仰る信心を本当にさせて頂けばね、教祖に還れというような表現で最近言われておりますけれども、本当に教祖に還っての信心、教祖の教えそのままに身に付けて行くところの信心、そこに初めて、道理に合う信心が身に付いてくるのですから、道理に合うたおかげが頂けてくるのでございます。
道理に合った、私が今日思うのにね、道理に合うたおかげというものは、もうこれは最高です。ですからそれは成程何宗でも、信心と名の付けば、ご利益というものが付き物でしょうけれども、その色々な信心の進め方と申しますかね、によってそこに天地の信に通じるといたようなものがありますと、やはりおかげは受けておりますよね。
例えば一心不乱に拝んだだけでも、おかげを受けておる。お供えをすれば病気が治る。それも嘘じゃない、あるのです。どんどんお供えすれば商売が繁盛する。それはまあ色々なおかげを頂くということにおいても、そのおかげの頂くルートというものが拓けてくるところから、おかげは頂けますけれども、道理に合うた信心をさせてもろうて、道理に合うたおかげというのは、そう頂いていないです。
とかく信心は根を肥やせ、根を肥やしておればひとりでにものが出来ておるようなもの。根を肥やすということ、それでいろいろあります。まず自分の心を、心が根ですから、
心を肥やす。一番素晴らしいことはやはり天地であります。天地の心に添う生き方というかね、還元という言葉を以てすると、天地に還元するということ。天地にお還しする生活です。
ですから、例えて言うと、あれは熊本でしたかね、大変篤農の方がおられましてね、いろんな化学肥料は使わない。例えば麦なら麦、米なら米が出来ますと、その殻だけは天地に還して行く。実まで還せとは言わん。殻だけを天地に還して行く。それが一番合理的な作物を作ることが出来るんだというような主張をしておられることをいつか本で読んだことがある。
いわゆる天地に還元して行くわけなんです。ですから天地がそれを完璧に天地に還すから、天地が受けてくれるのです。それでその、例えて言うと、それなら私どもがお商売をさしてもらう、そしてそこに利益が出る。だからそれを全部お供えしてしまえとか、元金に手を掛けろということじゃないです。
天地に対する、言うならば神恩報謝の印を、例えばお供えして行くことは還元。皆さんが毎日御初穂を奉られる。お賽銭を奉るのは、これはもう取りも直さず、天地への還元なのです。それで例えばこれは元金に手を掛けることではなくてです、いわゆる御初穂であります。ね一升の御飯を炊いても、御神飯をお供えするのはほん僅かでしょう。御初穂、だからその御初穂も、だからその御初穂が段々大きな御用の出来るようなおかげを頂かねばなりません。貧者の一燈ということを申しますけど、それは例えば金額がいくら些少でありましても、その人にとっては一端の真心のこもったものであるならば、それは天地の還元なのです。
そこで私は思うのですけど、そんならどこにでも言うと、例えば社会主義とか、○○教会、○○神社とか、何とか仏閣とかといったようなところに寄進をする人がありますね。アメリカ辺りでは大変な財産家が亡くなる時、その財産の全部とかを宗教関係に皆寄付をして、それが遺言になっておると言われておるくらいです。けどそうしたからと言うて、それが必ず生きてくるとは限らんです。その受ける方の側が、果たして天地につながっておるかどうかということなのです。天地への還元なんですから。
だからそういう意味で、自信を持って言えれるのは、合楽教会です。合楽のすべてが天地につながっておる、通うとる。ですから合楽にいくら注ぎ込んだって、それは天地への還元になります、現在の合楽でしたら。それは皆さんが日々合楽の信心を頂かれて、それはみなさん感じ取られなければ仕方のないこと。成程天地につながっておるのだなということ、合楽の教会は。ですからこれは天地への還元と同じなのです。ですから、だから沢山の御用が出来るようになれば、沢山の還元が出来るわけですから、いわゆる道理に合うたおかげということになります。
そこで今日頂きますように、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならないとこういうこと。道理に合う信心とは、ということになる。では道理に合う信心とは、宗教がどれだけ沢山あっても、どこにか道理に合わないところがある中に
、金光教の信心だけは、絶対天地の道理に合うた信心であるということである。
ですからこれは、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う、よく合点して、金光教の信心せねばならんということになるのです。では、それかと言うて、金光教の信心をしている者が、すべての者が、天地の道理に合うた信心しておるかというと、さにあらず、道理に合わん信心しとっても、おかげを受けておるということがありますが、道理に合うとらんでも、おかげを受けておる。そこまでだったら、何宗だって、何派だって同じこと。
ギリギリ金光教の信心さして頂いて、道理に合う信心さして頂くことは、どういうことであろうか。「どうぞお願いします、どうぞお願いします」と言うて、例えば、そのまま天地に還元致します。いかにも道理に合うたようにあっても、それはある一つの道理には合うておりましても、天地の道理に合うたということではない。天地の真の道理に合うということはね、いわゆるひとりでにおかげが生まれるようなものを以て、天地の道理に合ったおかげを受けるということが言える。ひとりでにものが出来るようなおかげ、お願い致します。お願いしますと言わなくても。
昨日は大和さんの一年に一回の謝恩祭でございました。もう本当に毎年毎年、年々歳々、本当に何というですか、実意が溢れたというのですか、堅実な信心へ堅実な信心へと、一家を挙げて進んでおられるということは、何を置いても素晴らしいことであります。堅実性があるです。
私お祭が済んでから、御理解を頂いて、御理解半ば、神様から色々頂くから、しばらくお話を切って、御祈念さして頂いとりましたら、もう言うことはないと神様は仰るです。家の宅祭の時は、とにかくこういう御理解を頂いたということは、あれは良か御理解を頂いて分からせたいという願いが、素晴らしい御理解になって表れてくるのですよね、言うならば。大和さんの現在のまま、進んで行けばということですよ。
今日の御理解の中に頂いております、「慢心は大けがの元なり」と頂いとりますが、ということも今日頂いとりますけど、そこで慢心が出たり、今の信心が挫折したりしてしまえば、これは、けど、今の信心が続いておれば、今の信心が続いて行けば、今の堅実な信心が続いて行けば、もう言うことはないと。危なげがない、【】気がない、気【】なところがない、小さものを大きゅう見せようということが更々ない。言うならば、今申したことの反対に、お互いがあるわけです。気【】で、小さいものを大きゅう見せようとするといったようなものがね、そういう意味で、大和さんの信心は、私は、やはり合楽では第一人者だと思いますね。しかも一家を挙げて、子供たちに至るまで、だからこのまま信心が進んで行けば、もう絶対にひとりでにものが出来るおかげを受けられるということなのです。私は本当に比礼というか、そのおかげというか、そのお祭の比礼に浴するというか、昨日私は本当に大和さんとこのお祭のご比礼に浴した感じです。
昨日私風邪具合が少し悪うございましたので、すぐ休ませて頂きました。そしたらお夢を頂いておることが、大和さんのところからお祭を終えて帰りましたら、もう月が煌々と
して、昨夜はだからこれから歩いて帰ろうと言うて歩いて帰りよるところでした。しかも途中から足が速ようなって、駆け足で一生懸命走って、ちっと坂のごとあるとこでん何でん、もうどんどん走って、どうして自分の足がこげん伸びるじゃろうかというくらい伸びて、走って止まっても息切れがしないくらいに、ああ私はどうしてこげん元気だろうかと、ちょっと階段を昇っただけでもへいへい言うとに、どうしたことじゃろうかと私は思わせて頂きました。ああ今月は大和さんところのお祭のご比礼に浴したおかげで、このようなおかげを頂いておるなあ。何と有難いおかげに、ご比礼、お祭のおかげを頂いて帰ったもんだなあというようなお夢でした。
やはりそのお祭のご比礼に浴することは素晴らしいことですね。それがひとりでに出来る、「ひとりでにものが出来るようなものぞ」と仰る、その信心の内容というものがです、今育って行きよるということです。もう宅祭に参りますと、いつものことですが、私がもう讎しいものですから、どうしても先生に喜んでもらおう、これも先生に食べてもらおうというて作ってあるものですから、もうそれを一通り頂きます。そうするとお腹がもうパンパンになってしまう。それにお祭が済んだら御直会と、御直会もちょっと箸を付けねばいけん。それで、それこそもうお腹一杯で、それこそ胃が苦しいくらいに頂き過ぎてるわけです。
昨夜休ませて頂いて、大きな布団三枚も着せて頂いとるにもかかわらず、もう背中が水をかかる程ゾクゾクするわけです。それで寝ながら、神様どうぞゾゴゾゴして休まれませんから、どうぞ暖を与えて下さいとお願いさして頂きよりましたらね、私の心事に響いてくること。テレビで宣伝をやってます、「パンシロンでパンパンパン」というのがありますでしょう、けれどもパンシロンを頂いた時にですね、私は思いました。背中が水をかかるようにゾゴゾゴと言うので、神様にお願いさせて頂いたんですけど、パンシロンでパンパンパンということを頂いた時にです、私のお腹がスキッとしておったことです。あれ程ずうぐるしい程頂いておったのがです、まあ丁度良か、今からラーメン一杯食べられるというくらいの状態だった、お腹の具合が。
私はそれを頂いてですね、本当に神様がね、例えば、さっきからお願いして、ちっとはずうぐるしいくらい頂いとりますから、どうぞ胃腸に障りませんようにと言うて、願うて休んだじゃないか、そのおかげを頂いとることは忘れてしもうてから、ただゾゴゾゴすることだけ願いよることが間違いだという。これなんかは道理に合うた信心とはそうです。
ただ自分の言うことだけ、ただ願うことだけ、そしておかげを頂いたことは、もう棚に上げてしまっておる、これでは道理に合わんのです。ほんの一時間くらい前に、胃が重苦しくて、また胃がせきゃあせんだろうかと言うくらい頂いておるから、どうか消化が出来ますようにと言うてお願いして休んで、そしておかげを頂いておることは、あらというくらいにおかげ頂いとるけれども、それを忘れて、ただ背中がぞこぞこする、寒気がすると言うて、どうぞお願いしますとお願いした途端に、パンシロンでパンパンパン、それこそ
胃の薬を頂いて、ゲソッと下がったくらいのおかげを頂いとるということなのです。そのおかげを受けておることを棚に上げて、願うことだけを願っておる。それでは道理に合わんぞと言うことである。
まず、お礼を申し上げてから、あれもおかげ、これもおかげ、ただ今申します、食べ過ぎておって、もうそれこそ無茶苦茶なお願いでもおかげを下さることを忘れて、そして背中がゾゴゾゴするということだけを願っているということを頂いて、ほんにおかげを頂いて、胃が忘れるくらいに調子が良くなっておることをお礼申し上げた途端に、ゾゴゾゴがスキッとやんだんですから、もう今朝はしめてあの三枚の布団を着とったからでもありましょうか、汗がびっしょり出て、お湯をかかろうかと思ったくらいでした。それで今朝はおかげで水鼻も出らんのです。ゾゴゾゴもせんとです。
もう本当にあっという間に、胃の方がおかげを頂き、または体のゾゴゾゴもおかげを受けておったということ。そのお礼を申し上げることも、お礼を申し上げずに、どうぞ体がゾゴゾゴしますからお願いします、お願いしますと言うて、一晩お願いしたけど、お願いせじゃったということで、皆さんの願いの中にありはせんでしょうか。お願いばっかり一生懸命こげんお願いしよるのに、だからまあまあ一生懸命頼むからおかげ下さるけど、けれどもお願いする前に、願っておったことが成就しておる。あれもおかげ、これもおかげと思わしてもらう。思い当るところはないかと、そしてお願いさせて頂いて、また背中がゾクゾクしますからお願いしますと。と言えばもう次の瞬間には、ゾゴゾゴが止んでおった。今朝汗がびっしょりかいておった。これなどは道理に合うた信心であります。けどそげなことで最高ということではないのです。
今朝から御神前に出させて頂いたら、映画俳優に高田浩吉というのがおりますね。高田浩吉が目明かしの格好をしてから、十手を持ってこうやって膝を叩いているところを頂きました。十手を持って、御用御用という十手を持って、高田浩吉というのは、「浩」という字は、「幸」という字を頂くべきですね、御理解としては。高田ということは、最高の田地ということでしょう。最高のおかげの受け物、受け物ということなのです。最高のおかげの受け心というのです。
あのね、このおかげの受けられるようになって初めて、金光教の信心をさして頂いておる値打ちがあるのです。「人間は万物の霊長であるから、万物を見て金光教の信心をせよ」とここでは言わんばかりに教えてあるわけですよ。なら、教祖様はよその宗派をくさすことはございませんから、他の宗教を見て見れ、どの宗教だって道理に合わんことばっかりじゃろうがと。私が教えておることは、天地の道理に寸分違わぬように、道理に合うたことを教えておるのぞと同時に、金光教の信心をせろという意味なのです。私はそう今日は頂くですね。
ですから金光教の信心させて頂いとっても、ただおかげを頂いております。願いから願いの信心で、おかげを頂いとりますというようなことだけ、ただ天地に対する還元だけが、おかげを頂くというようなことではなくて、もっともっと根本的なところに目指して信
心を。どういうことかと言うと、ひとりでに物が出来るようなものぞと。おかげの頂かれる信心が肝心であります。
そこで、ひとりでにものが出来るようなものであろうぞと教えられるような信心とはどういう信心かということを、私どもが、かと言って、それをまあちょっと芽が出た程度であろうけれども、生活の上に、信心の上に表れるのが、まあ言うならば、大和さんという感じが致します。だから皆さん大和さんを一つ見たら分かるです。どういう信心かというと、有難いからと言うて、十が十決して言わっしゃらん。自分の心の中にちゃんと、胸の中にしまっておるという感じ。
大概のものは、十有難いものは二十くらい有難いような、例えばそれはね、お礼を申し上げる時には、神様はそう仰るけれどもね、十のおかげと思う時には、二十のお礼をと仰る。実際は二十以上のおかげを頂いとるとですけど、目に見えんだけ。けどほんに有難か有難かと言うて、百も有難かと言うてから、実際は五十くらいしか有難くない。というような有難さが、出したために希薄になって、薄くなって行くことの中に。
その点大和さんの場合にね、十有難かったっちゃ、五つしか有難いような風にしてござらんという感じが致します。自分の心の中に有難いものを湛えてござるという感じですね。これが万全ということではないですよ。本当にひとりでにものが出来るとはあのようなものであろうかと、おかげが頂かねばまだ分からんのですよ。そういうだから、線に沿っておかげを頂かねばいけないと思うて信心をしておられるということです。
そのことを昨日、ひとりでにものが出来るようなということの例話を聞いたのですが、お互いそこのところ、ひとりでにものが出来るようなものぞと仰るような、信心とはどういうことかということを一つ願わねばなりません。私どもは本当におかげを頂きながら、願うたことも成就したにもかかわらず、そのことはもう忘れたようにして、次の願いばかりを願うておることでは、願いに暇もいりましょう。だから願いが暇がいる時には、やはりおかしいと思わにゃいかんです。
例えば、昨日私が、背中がゾゴゾゴするという前に、やはり胃がこのようにおかげ頂いておるということを忘れておるです。忘却しておるです。で、そのことをお礼申さして頂いたら、本当に次の瞬間にはもう、背中のゾゴゾゴがなかったという程しのおかげというのはね、願うということが教祖の心の中にぴたっと入って行くというようなためには、私は昨夜寝床の中のおかげを皆さん一ぺん思うて頂くと分かるです。
ただお礼を申し上げるところは、お礼を申し上げる。ただやあやあ言うて一生懸命地団駄踏んで願っておるということが成就しながら、そこに一ぺん思いを改めてみることが必要であります。万物の霊長であるから万物を見て道理に合った信心をすれば、道理に合ったおかげが受けられます。その道理に合うおかげというのが、ひとりでにものが出来るようなものであると言われる程しのおかげが頂かれるのです。それが道理に合うたおかげです。
だから私どもは、道理に合わんおかげばかり頂いておるとすると、金光教だって同じこ
と。やはり道理に合わないことになるのです。高田浩吉、最高のおかげの受け物と言えば、天地の道理に合うた信心をさしてもろうてから、受けるおかげの受け物こそが高田である。最高の言わばおかげの場であります。だからそこの最高の受け物はひとりでにものが出来るように、種をまけば、ひとりでにものが次から次から出来て来るから、いわゆる十手を持っておるということは十の手を頂かにゃいけません。
竹内先生が、市長に立候補される時に頂いたのが、十手が揃ったから今度は立てということでした。まだ立候補される段になっていなかった。十手というのは、言わば竹内先生の言うならば、周囲にです、手になり足になる人が揃うたということです。
だから今日私が頂いた、高田浩吉が持っている最高のおかげの受け場から、受けるところのおかげを持って、十手というのはです、御用に使うのですから、あらゆる御用が出来るということなのです。今日のここんところ、どんな御用でも出来れるような信心氏子にですね、お取り立て頂くために、万物を見て道理に合う信心をさして頂いて、道理に合うおかげを頂く。そのおかげをというのはひとりでにものが出来るようなものであるということ。そのひとりでにものが出来るようなおかげを頂いてこそ、初めて十手の御用が出来る。どの手この手持ってでも御用が出来るという意味なのです。
ささやかであります。芽が出ただけではありますけど、大和さんの例えば信心の、いわゆる信心の堅実な歩みと言いますか、一家を上げての、このまま育ってさえ行けば、言うことはないという大和さんの信心がです、私どももう一ぺん検討さしてもらい、研究さしてもらい、あの辺がひとりでにものが出来るおかげの頂けれる内容を持ってあるとは、ああいうことであろうかと、一つ検討してみる必要があります。
そして初めて、成程金光教が天地の道理に合うた宗教であるな、信心であるなといよいよ確認する、おかげを頂かねば出来ませんひとりでにものが出来るようなおかげ、そのために一つ、どうぞ、甘木の初代が仰ったそうですけど、信心が十のものならば、お礼が八分と仰ったそうです。だから本当にお礼が不行届きになっておるところ、神様は何ともおっしゃいませんけれども、願うておることがです、例えばどうも成就しないごとあるなら、これはまずお礼不足であると思うて良かですね。忘れとるお礼の方を。
それだけではありませんよ。高田浩吉という最高の、言うならばひとりでにものが出来るようなものは色々ありますよ。その内容に、その内容を一つ一つ見に付けて、本当にひとりでにものが出来るおかげを頂かしてもろうて、初めて、道理に合う信心をさして頂いておるおかげということになってくる。信心を頂かねばならないと思います。どのような御用にでもです、高田浩吉が十手をこうやって持っておる。もうどんな御用でも出来る。御用御用というわけです。十手というのはあらゆることを以て御用が出来る程しのです、私は御信心を頂きたい。そういうお徳を頂きたい。
そしていよいよ、慢心は大怪我の元と仰るのですから、例えば今日、大和さんが今朝御理解頂いておられますから、人間は少し誉められたりおだてられたりすると、気分の良いものですよ。だから誉められたりおだてられたりする時は一番危険な時です。だから言い
たくないけど、まあ今日の御理解から一番適切なから申しましただけですけど、そこで慢心が出るようになりましてはならない。むしろ悪口言われたり、陰口されたりするような時こそ、それを信心で受けて行く、おかげを受ける時です。
ですから、誉められたり、おだてられたりする時には、いよいよ自重させてもらわなければならないことは勿論です。でないとそれが慢心になり、それが挫折の元になり、おかげを頂ける内容を持ちながら、おかげが頂けんようになって行くことになりますから、今日神様から頂いた、色々のパンシロンでパンパンパンを一つ思うて見て下さい。高田浩吉が十手を持っておるところを思うて見て下さい。そうすると今日の御理解がこう浮き彫りされて来る。そのところを私どもかっちりとキャッチして行くところのおかげを頂いて頂きたいと思います。どうぞ。